TOP > ブログ一覧 > 山梨の山 > 若彦路(鳥坂峠)2

山梨の山

登山と山と高山植物

プロフィール

山梨県は山国です。
たくさん山に登ってきました。
その魅力は知る人ぞ知る宝です。しかし県内者を含めて知られていません。これからも自然の発掘に勤めます。ブログ初めてです。どうぞ宜しくお願いします。

ブログ内検索

カレンダー

<< 201812  
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

バックナンバー

最近の記事

カテゴリー

最新のコメント

関連リンク

若彦路(鳥坂峠)2

2011.01.10 16:08  投稿者:ootaminoru

若彦路の国中側即ち八代側の鳥坂峠に向う最終村落である奈良原の高台には広済寺があります。この寺の伝える処によれば1400年初頭の頃に武田信春がこの寺の中祖であるそうな。それ以来武田信虎、信玄、勝頼、織田信長、家康などなどにも厚い寄進を受けてきた寺だそうです。臨済宗妙心寺派に属する寺だそうだ。

それ以前は密教系の寺であったが鎌倉仏教の臨済宗妙心寺派に熱い武田家の菩提寺に武田信春が改宗したのだそうです。
しかし此処で気になるのは本堂に華厳衆と書かれていることです。
叉境内には観音菩薩と地蔵菩薩の石造があります。
臨済宗妙心寺派であれば釈迦如来を本尊とするはずだ。

密教系の寺だったと案内板に書かれていますが、高野山真言密教系でも比叡山の真言宗でもなさそうだ。

本堂には華厳衆と大きな字で書かれています。
華厳宗は奈良の大仏建設当時になって初めて華厳宗、法相宗などと呼ばれるようになったのだそうです。
後世、平安時代には南都六仏教と呼ばれた宗派の一つが華厳宗でありその他に法相宗、倶舎宗、三輪宗、誠実宗、律宗(四分律)=真言律宗なのだ。
大仏が造営される以前は寺に宗門が確立していた訳ではなく華厳衆、法相衆と言って華厳経を極める人、法相経を研究する人であった。叉は研究する場と言うような使い方だったようだ。
例えば全国に配置された国分寺(741年聖武天皇が全国に造営を指示した)には国分寺の宗派は取りざたされません。
国分寺ではおそらく後世の南都六仏教を全て混在した形で研究されていただろう。この頃の仏教は人を対象にした心であり幸せの請願仏教ではなく国家安泰、鎮護国家を祈る祈祷形式のものであった。
東大寺の大仏が造られたのは西暦748年でありその頃にやっと華厳宗であり
宗派を名乗る事になって来たそうで、本尊の大仏は瑠紗那仏であり別の言葉で言えば後世、大日如来と称する仏像となったのだ。

そうだとすると奈良の都から遠くはなれた甲斐の国の山里にどうして華厳衆の集まる寺が存在し、南都仏教の奈良をイメージする奈良原の地名がついたのだろうか。
華厳衆と奈良原の名前から、此処が山梨県の国中の玄関口であったであろうと想像する。国中は当時の甲斐の国そのものであっただろう。甲斐の国の奈良原は権力や新しい富が入って来る甲斐の国の玄関口であり、国府に近く現在で言えば中央線の特急の停車する停車場である甲府駅であり、高速自動車道であれば甲府南インターチェンジか甲府昭和インターであっただろう。

これは私の推測でありそのような文言は広済寺のホームぺジに記載されていません。

しかし、八代町は縄文時代から弥生時代に掛けて人口が集中していた場所であり、更に時代が下るに従い豪族が割拠する時代の墳墓や、そして中央政権との影響を受けた竪穴式古墳時代の遺蹟や遺物が隣の曽根丘陵と共に県内で一番たくさん出土している場所です。その事は上代から古代に掛けて若彦路が交通の要所であったことを示しています。
写真1は奈良原の広済寺の本堂です。華厳衆と記載されています。

写真2は新鳥坂トンネルの八代側入り口です。

写真3は鳥坂トンネルの八代側入り口のスズランの浮き彫り彫刻です。


この場所を地図から探す


近くのエリアの記事

コメント(0) | この記事のURL | カテゴリー:歴史文化産業

コメント

コメントを投稿する

ボタンをクリックしてもコメントフォームが開かない方は、
お使いのブラウザのポップアップブロック機能を解除してください。

▲Page Top