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山梨の山

登山と山と高山植物

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山梨県は山国です。
たくさん山に登ってきました。
その魅力は知る人ぞ知る宝です。しかし県内者を含めて知られていません。これからも自然の発掘に勤めます。ブログ初めてです。どうぞ宜しくお願いします。

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古代の道、中道からの眺め

2011.01.03 19:36  投稿者:ootaminoru

1月2と3日に考古学博物館で古代米(赤米と黒米)のお餅をついて食べるイベントがあり参加しました。私は1月3日に行きその日は赤米の御餅でした。
早い話が夫婦で押し掛けて古代米のお餅を振舞っていただきました。
元々古代米に興味があり、古代米の温故知新を得たいと考えました。
山梨県内の遺蹟からも縄文晩期?に古代米の炭化遺物が発掘されていると言いますが、それらを含めて学芸員は日本に伝わった米はジャポニカ種であると言われますが一部分はインデカ種ではなかったのか?と私は疑っています。
日本に伝播した米は幾つもの時代に渡って幾つもの経路によってもたらされたものであり、その植物分類学上の遺伝子情報も複数あっただろうと想像されます。時期的にも一部分は縄文晩期に遡るのではないかとも言われているそうです。経路としては九州畿内経路とは別に島根県方面から日本海沿いに北上した別ルートがあったらしい。

中央市豊富地区の農家で栽培された黒米を1月2日に御餅にして振舞われたそうですが、その黒米の乾燥した見本からは姿形ではインデカ種のように私は思う。それはジャポニカ種に比較してインデカ種は形態的には細長であり、その特徴を示しています。
現在東南アジアで栽培されているタイ米はインデカ種だと聞いていますが、そのタイ米と似た細長い姿をしていました。
叉、インデカ種の生理生態的特徴は脱粒しやすい特徴があると言います。
稲穂で籾が完熟するとドングリが落下するように籾が脱粒するのです。
ですからインデカ種の刈取りは穂の部分のみを刈り取るそうです。

弥生時代の稲の刈取りは穂摘みされたと言いますがそれは鉄器が無かった時代に石器の鋭利なナイフで稲穂を摘み取る必要性があったのだそうです。しかし鉄器である鎌には石器は及びません。
それは穂摘みが労働生産性が高いという理由の他に脱粒防止の役目をしていたのではないかと思う。
ジャポニカ種は稲藁にしっかりくっついて稲穂をはぜ掛けして乾燥しても脱粒しません。千歯扱きと言ったでしょうか、叉脱穀機でつい最近まで稲穂と籾を分離する方法が取られて来ました。

DNA鑑定をすれば明らかな事ですがその結果を踏まえて真実を知りたいと思っています。
最新の科学的分析で真実が明らかにされていない段階のように思われます。



一宿一飯の恩義がありますので現在考古学博物館で展示している中道地区の出土品展示について以下ガイダンスしてみます。

私の住む中央市は平成の市町村合併の前は中巨摩郡の田富町であり、笛吹き川を渡れば八代郡だった。甲府盆地の鍋底の部分に相当し八ヶ岳、北岳(南アルプス)、御坂山塊それから秩父多摩甲斐の山々に囲まれています。そのバックヤードである御坂山塊側の丘陵台地は曽根丘陵と言いますが縄文中期の時代(5000万年前)から縄文人がたくさん住んだ地域であり、引き続き弥生時代後期から古墳時代に至り方形周溝墓や大型の竪穴式古墳が築造されてました。
山梨県、隣の長野県は共に縄文人がたくさん住んだ地域として日本列島の人類の発展を考える上で特異な地域であります。

笛吹き川を渡った曽根丘陵は古墳時代中期頃(1300年前)は甲府盆地の玄関口として盆地外から多くの新しい文物が到来しました。大型古墳そのものがそうであり、その副葬品等に畿内地域の交流の跡を見る事が出来ます。
土器で言えば野焼きの800度くらいの温度で粘土を焼いた酸化型の素焼きから朝鮮半島を渡って畿内にもたらされた技術である登り窯で焼かれた1200度位の還元炉の須恵器が多数発掘されています。
この時期から釉薬を使用したような灰釉陶器と見間違う硬質な陶器が見られます。燃料の木材の灰が高音で融けて土器の表面に付着して釉薬のようにコーテングしたものです。
古墳時代後期には山梨県内にも登り窯で焼く技術が伝播しこの地で焼かれた陶器が見られると言います。

その交通の要所である中道地区や御坂地区は御坂峠そして御坂を越える若彦路と富士川に沿った河内路そしてその中間にある中道往還が駿河と甲府盆地を結ぶ道として甲府盆地に文物を伝えました。中道往還は左右口から左右峠を越えて芦川地区へ、更に女坂峠を越えれば精進湖の湖畔に立ちます。そこから本栖湖に出て朝霧高原を経て駿河に至ります。
駿河からは海伝いに東海道で畿内繋がっていました。
縄文時代から歴史時代に至る重層の歴史を語る遺蹟がこの地域には沢山あります。

現在山梨県立考古学博物館では1月30日まで「古代の道、中道からの眺め」展覧会を開いています。
もう一度山梨県の歴史を学んでいます。



写真1は釜無川の浅原橋からの八ヶ岳です。八ヶ岳の水は釜無川に流下し
    ます。
写真2は中央市豊富の農道からの北岳です。南アルプス北部の河川は
    釜無川や野呂川から富士川に合流して駿河湾に注ぎます。
    この川沿いの道が河内路です。

写真3は精進湖からの富士山です。中道往還の御坂山塊超えの景色です。


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