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山梨県は山国です。
たくさん山に登ってきました。
その魅力は知る人ぞ知る宝です。しかし県内者を含めて知られていません。これからも自然の発掘に勤めます。ブログ初めてです。どうぞ宜しくお願いします。

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甲府城の柳門

2009.02.23 18:39  投稿者:ootaminoru

廃藩置県後の甲府城と柳門
甲府城は明治維新後は廃藩置県で無用の長物となりました。三つの代官所が管轄地を治めたりしましたが明治4年に山梨県が誕生しその初代県知事は藤村紫朗であり当時は県知事のことを県令と称しました。その時、藤村紫朗は28歳だったそうです。熊本出身で明治維新の立役者(官軍)の一人でした。明治維新の立役者はみんな若かったんですね。

甲府城は中央政府の陸軍が接収しまたが聯兵場には不向きであり、その後陸軍から県が借り受けて実質的には県が使っていたようです。鍛冶曲輪には各種の勧業試験所が建設された。明治9年には県立の葡萄酒醸造試験所が建設されてワインの製造が行なわれた。城内の曲輪は葡萄栽培農園となった。
話は逸れますが、ワインの発祥の地は山梨県でこの県立葡萄酒醸造所から技術者が育ちました。

ほぼ明治10年頃までに城郭内の建物や門、塀は壊されてしまいました。
時代は下がりますが明治36年に中央線が東京から開通します。
城内の北半分は中央線の甲府駅舎やホーム、線路になり東側は明治33年に甲府中学校になり時代が下がって甲府中学が移転しそこへ南側にあった県庁を昭和3年に現在の地に移し替えました。現在県警や教育委員会が入っている建物が当時の本庁で昭和5年のものです。

内堀は殆ど埋め立てられ道路になった。現在も内堀として南側に100㍍位残っている部分だけが当時埋め立てられなかった部分で当時の状況を今に伝えています。

明治37年には県立公園として舞鶴公園として県民に広く解放されるようになりました。正式には県借地であった舞鶴城公園は大正6年に有償で払い下げが行われて県有地になりました。実際にはそのお金を工面して県に寄付したのは甲府市豪商の村松00さんでした。
山梨県は明治40年と43年の大水害で復興にもこと欠くほどお金がありませんでした。
ですから実質的には村松某さんが甲府城を国から買い戻して県に無償寄付したものです。その甲府城即ち現在の舞鶴城公園は村松某さんのお陰で今に繫がっている訳です。

ところで内堀から城内に入るには三つの門がありました。

①柳門
②裏門の山手門、、、、YBS会館の前に再建した山の手門
③表門の追手門(大手門)、、、県民会館のスクランブル交差点の県庁
                寄りの部分。

写真2は山の手門ですが此処の撮影場所はYBS会館前の横断歩道橋の弧線橋側に下る階段の途中から撮影したものです。ポリスボックスの上です。
この1点だけが左側に稲荷櫓、そして富士山、山手門、天守台、本丸が見える唯一の場所です。

この三つの門の場所は②山手門③追手門は広く知られていますが
①柳門はあまり知られていないようです。

そこで、今回写真付きでお知らせします。
①柳門はお勝手口としての用足しに使うような機能を持っていたと私は推測しています。詳細は不明。他の二つに比べて小さな門でした。現在の平和通り側から県庁へ入る門より少し駅寄りの場所でホウトウ屋小作の隣に「駅前屋台味一」の場所がそうです。その裏側は県庁の敷地内です。

この部分は最近まで県庁からの出入り口として使われていた可能性があると推測します。当初はそこが平和通り側の県庁への出入り口だったかもしれない。そこだけが平屋の簡単な木造建築になっています。(駅前屋台味一さんには失礼しました。)
平和通から透けて県庁を超えて二の丸の城壁が見えます。
現在の平和通は内堀でした。内堀を埋めて道路にした訳ですが柳門の名前の由来は内堀の外側に堀に沿って南北に柳通が走っていました。その柳通りに面した門であることに由来しています。

この柳通りは武田の館である躑躅ガ崎の館から武田の城下町を下って来る五本の道路の一つが柳通りであり、その延長線上に甲府城築城時に新しい甲府城の道路を接続させたのでそのまま柳通りとしたというのが一般的な解釈のようです。

私は柳門の城内側に1704年から1724年に柳沢吉保、吉里親子の屋形曲輪があり屋形屋敷がありましたので、柳沢時代に柳沢屋敷からの勝手口として出入り用に関係するのでは?と考えていましたがそうではないそうです。

柳はどういうわけか中国では大変縁起の良い樹木です。そうした中国からの故事を武田信玄は禅宗(妙心寺派)の僧侶から学んでいたと思われ武田の城下町の道路の名前に付けたと推測します。
武田信玄は若い頃、勉強家で僧侶から(中国の)学問を学んでいました。
当時の学問は中国からの諸々のものでした。
風林火山の元になった孫子の兵法学もそうした禅宗の僧侶からの伝授だと言われています。

尚、写真3は追手門の位置を示す為の県民会館のスクランブル交差点ですがAMPM側からの撮影でスクランブル交差点を渡った県庁寄りの樹木の位置が大手門です。旧西部デパート、現在の山梨観光プラザの前の道及びスクランブル交差点から弧線橋に向う道路は堀でした。


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