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山梨の山

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武田神社の三葉松(その2)

2009.02.09 17:06  投稿者:ootaminoru

三葉の松は日本には自生していません。
その状況証拠には三葉の松があるのは神社仏閣や学校などに殆ど限れています。
学校もその昔は神社仏閣だった場所が多いです。
日本の野山には何処にも生えていません。
数百万年前に絶滅してしまったそうです。

地球上で三葉の松は北米大陸の東部地区に生えていてそこが原産地です。
武田神社と同じ種類の三葉の松が甲府城の稲荷曲輪にも植えられていますが
この松はリギダマツという種類のマツです。
私が知り得ただけでも三葉の松は4種類あります。
写真1を参照されたい。
リギダマツは北米大陸のアメリカ五大湖付近に自生しているマツです。

アメリカ大陸がヨーロッパに発見されたのは1492年です。
アメリカがイギリスから独立したのは1783年です。
アメリカが南北戦争を終結したのは1865年です。
アメリカのペリーが浦賀に来たのが嘉永6年(1853)年です。
日本が明治維新を迎えたのが1868年です。
躑躅ガ崎の館跡に武田神社を建てたのは大正8年(1919年)です。

武田勝頼が躑躅ガ崎の館を破棄したのが1581年12月ごろ。
現在の韮崎市の新府城に移っています。
そして正月も覚めやらぬ翌年3月には天目山の麓で滅亡しています。

その後、甲斐の国を占領したのが織田信長と徳川家康の連合軍でしたが、三月後には織田信長が本能寺で明智光秀により自害に追い込まれて死にます。
天下は次第に豊臣秀吉に傾く訳ですが1590年の小田原征伐で決定的に豊臣政権が確立します。
その頃は甲斐の国を治める拠点として躑躅ガ崎の館は時の権力者に使われていたらしい。
1590年以降、甲府城を一条小山に普請してからは躑躅ガ崎の館は破却されます。

武田神社の三葉の松の由来を書いた武田神社社務所の立て札に依りますと高野山から種子が飛んできたそうです。
そこで高野山にある三葉の松を検索しますと、高野山では「三鈷の松」と言われています。
高野山の三鈷の松の由来を調べますと真言宗高野山を開山した弘法大師空海上人が遣唐使の留学生で帰国する海の上の船で三鈷を密教有縁の地に行って我を待てと天に放り投げた。帰国して和歌山の高野山に松の枝に引っ掛かっていた三鈷があった。
そこで弘法大師はそこを真言密教の聖地(総本山)とした。
三鈷が掛かっていた松が三葉の松であり三鈷の松と名付けた。
三葉の松が三鈷に似ていたので弘法大師の真言密教の象徴である生まれ変わりだとした。弘法大師は承和2年(835年)62歳で死亡しています。

これ等の時系列から私はペリーが浦賀に通商を求めて黒船でやって来て以後の時期に頭の良い作家が物語を捏造して高野山に植えたものだろうと推測します。
現実的には明治の時代に殖産興業の一つとして多くの農林作物の一つとしてアメリカやヨーロッパから導入されたものの一つではないかと思います。
但しこの松は樹脂が多く、材が曲がりやすく柔らかであることから建築材や柱、家具等の板としても使えない樹木であり材木用資源として日本で植えられることはなかったようです。


三葉の松は大変珍しい。しかも弘法大師に関係があるので縁起がよい。
身に付けていると「金運」「夫婦和楽」「心願成就」のご利益があると物語ります。
現在、三葉の松があるのは神社仏閣に多いですが特に真言宗の末寺に多い様です。最近では公園や見本林などに植えられているようです。

写真1と2はリギダリスで検索したHPからお借りしました。
写真3は武田神社で撮影しました。

次回の武田神社の三葉の松(その3)は樹性や生態について考察してみます。


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