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嘉永2年頃の中央市

2009.02.07 14:18  投稿者:ootaminoru

笛吹川と釜無川の合流する内側の股、三角州のような場所が中央市です。
嘉永2年(1849年)頃の絵地図に当時の村の位置と名前が記載されています。
既に現在と変わりません。

この付近は武田信玄の時代から釜無川の川筋を徐々に南側に変えながら現在の甲府市の水害を防ぐ土木工事が採られてきました。
それらの工事は江戸時代も継続して行なわれてきましたが一括して信玄堤に代表される信玄の川除け工事としての名称で呼ばれてきました。

竜王の信玄堤工事以後徐々に川筋が南進させられましたのでその下のほうの村は水害に見舞われました。
そうした負の現象もあったことを含めて史実として明らかにしなければならないと思います。

現在、そのような研究が進んでいません。
元になる資料が不足なのでしょうか。

この川除けについてもマダマダ明らかになっていないことがいっぱいあります。
中央市は釜無川と笛吹川の氾濫で悲惨な生活を余儀なくされた地です。
中央市今福新田では今でも二階の軒下に和船(川崎船)を吊り下げてある家があると言います。


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