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山梨の山

登山と山と高山植物

プロフィール

山梨県は山国です。
たくさん山に登ってきました。
その魅力は知る人ぞ知る宝です。しかし県内者を含めて知られていません。これからも自然の発掘に勤めます。ブログ初めてです。どうぞ宜しくお願いします。

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道標

2009.05.31 06:08  投稿者:ootaminoru

古いと思われる道標がありました。

マツダランプのロゴは東芝が1910年から1962年まで使った商標だと判りました。1962年は昭和37年です。
ですから昭和37年以前のもので立てられてから47年以上経つ事が判りました。個人的なことですが昭和37年は私の二十歳の時で青春に突入する時期でした。

写真1と2は下部の毛無山山中で、写真3は昨年1月に歩いた甲府市の要害山から岩堂峠の山道です。

商標はとっくに東芝ランプに変更になっているのに、山の中ではそれをとがめる人も居ないし道標としての役目はキッチリこなしていますので現在尚、健在なのでしょう。

この道標はホーロー引きの鉄板でその当時は看板や広告に多く使われた材質だった。
今でも食器や鍋などに使われています。
鉄板に鮮やかな顔料を塗装し焼付けて更にガラスで皮膜を覆い焼き付けたものです。
表面のガラス部分が割れたり皹が入らない限り焼き付けられた顔料や鉄は酸化することなく酸やアルカリ性等の化学変化に強く殆ど経時変化がないと思います。

47年前の道標が今尚、鮮やかに残ってそ...


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太宰治展とハナショウブ

2009.05.30 21:59  投稿者:ootaminoru

今、県立文学館で太宰治展をしています。
生誕100年だそうです。
6月28日までです。

私は一冊も太宰作品を読んでいません。
だから作品については全く未知です。論説や解説や感想を話すほどの自信がありません。
会場で山梨を舞台にした太宰治作品(妙)をもらいました。A3に表裏びっしり書いてあります。叉太宰治の甲府ゆかりの地、散歩マップをもらいました。
この二つを読めば山梨での最低の知識を得ることになりそうです。
団一夫の「火宅の人」を読んでいるので団一夫との交友関係を拾い読みした。
一回りして30分ほどで出てきてしまいました。
人気があるんですね。
沢山の人が来ていました。

裏庭の日本庭園にハナショウブが咲いていました。


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サクラ

2009.05.29 14:23  投稿者:ootaminoru

サクラ

富士山に近い天子山塊の毛無山(1964m)の頂上付近で出会った野生種のサクラです。
天子山塊は南北に本栖湖畔の竜ヶ岳から山脈が連なり雨ケ岳、毛無山、長者ケ岳、天子ケ岳、白木岳と南下して繋がり太平洋の近くの静岡県で没する。

このサクラは富士桜、叉の名は豆桜と言います。

富士山や箱根などの中部地溝帯付近の山岳地帯に生えているサクラです。
火山性の痩せ地でも亜高山帯にでも生育来るように進化したらしい。
主幹が立たずに株立ちしています。
積雪は多くないので雪の影響ではないと思います。
このような性質を持ったサクラだと思います。
北海道からアリュウシャン列島に掛けてのサクラで千島桜がありますが同じような樹性をしています。
北海道中標津で見てきました。

ここ毛無山の尾根は東側が静岡県で朝霧高原です。標高600から900メートルもあります。西側が山梨県の富士川に沿った複雑な山塊です。
駿河湾から吹き抜けて来る風は富士山の裾野の草原台地や樹海を北上してきます。
朝霧高原で冷却されてこの毛無山の頂上付近で西側の停滞した山梨...


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湯の奥村

2009.05.28 05:46  投稿者:ootaminoru

戦国の時代から続く金堀衆の里の村落だった。
湯の奥(中山)金山採掘場から下って来て耕作の出来る富士川流域まで10キロ以上あり、その中間の山の中の傾斜地に張り付くようにして小さな村落があります。

その50戸程の村落の中心的門西家にはこの地を治めた代官や関守としての古文書が残っているそうです。はるか戦国の時代から続く家系であり、村落だそうだ。
現在の当主は17代目だそうだ。
関守としての仕事は毛無山を越えて富士山側に下ればそこは静岡県の朝霧高原の麓村落であり、街道になっていたのかと思う。

村落の一番高台に神社がありました。
案内板に金山衆の信仰の守り神だったと記されています。
きっと昔は湯の奥(中山)金山の採掘地、精錬場の村落現場にも神社があったと思いますが、江戸時代に金の産出がなくなり採掘精錬現場の村落は廃村となり神社も消滅してしまったものと思う。
採掘場へ登る登山口には言い伝えに依りますと金堀衆の守護神である金山神社が七社あったと書かれています。
現在では里宮としてこの集落に鎮座するのみになったものと思い...


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山梨百名山毛無山9

2009.05.27 18:57  投稿者:ootaminoru

天子が岳山塊の毛無山(1964m)です。

身延町(旧下部町下部温泉の奥)から登るこの山は途中に金山遺蹟があります。
戦国時代の武田信玄の頃から江戸時代初期に掛けて大量の金が産出した事で知られています。
武田の金は黒川金山とここ、湯の奥(中山)金山が主力でした。
付近の村落や寺院には当時の金山に関した文章が沢山残っているそうです。
林道途中の湯の奥村には国の重要文化財に指定されている門西家住宅があり武田の頃からここで金山奉行などをしてきた家系だそうです。
裏に現在の当主の住宅があり伺いますと17代目だそうです。
大変元気なご老人でした。

登山を開始して1時間の途中の金山遺蹟を散策しました。
金山遺蹟は国の史跡に指定されています。
女郎屋敷とか大名屋敷と地元では語り継がれている場所もあり看板がありました。段々に着けられた沢山のテラス(住宅や作業場の平坦地)を見てきました。
叉、鉱石を焼いて脆くするための炉がはっきり残っていました。
1時間近く遺蹟周辺で観察しました。

但し、穿り返したり、石を動かしたり、石を持ち出した...


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福楼(甲斐善光寺御開帳)

2009.05.26 18:48  投稿者:ootaminoru

甲斐善光寺の境内で巣立ち間近の福楼(フクロウ)の兄弟が居ます。
現在、甲斐善光寺は御開帳ですがあと数日の5月31日で終ります。

私は未だ当分時間があると思っていましたが気がつくと、もう日にちが無くて5月25日に慌てて行って来ました。
善光寺御開帳の戒壇めぐりや宝物殿の見学も終わり、境内に出ました。
境内の裏側で数人のカメラマンが500ミリの望遠レンズを装着した一眼レフタイプのカメラを三脚に立てて松ノ木のてっぺんから下1メートルを狙っています。
聞きますと巣立ち前のフクロウの兄弟がいるのだそうです。

私はコンパクトデジカメで精一杯ズーム望遠で狙って手持ちで撮影しました。写真1です。

前立阿弥陀如来三尊像を見れた事よりもフクロウの巣立ち前の兄弟が見れたことに幸せを感じました。
脚を使って取材に出掛ける。偶然とは言え思わぬ出会いがあります。
これからも脚を使って(現場主義で)「わいわいねっと」 を続けようと思います。

追伸:善光寺如来は阿弥陀如来三尊像です。
この仏様が日本伝来で一番古い仏像と言う事になるのでしょう...


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志摩の里を歩く(北山野道)

2009.05.25 17:12  投稿者:ootaminoru

志摩の里を歩いてきました。
湯村付近を志摩の里と言います。
甲陽軍鑑に信玄は志摩の里(湯村)で湯治をしたと書かれているそうです。

時代を少し遡りますと武田信虎が荒川の飯田河原の戦いで本陣を敷いた地点が千塚八幡神社だそうです。写真3が千塚八幡神社です。
この戦いで信虎は駿河の今川勢の福島正成に大勝して武田同族団をピラミッド状に纏め上げる結果となりました。
その時に信虎夫人である大井夫人は躑躅ガ崎の館が危ないと要害山に逃げてそこで産んだ子供が晴信です。時に大永元年(1521年)信虎が躑躅ガ崎の館を築いて3年目、晴信が誕生した年です。


甲府市教育委員会は甲府市の北山野道として散策路を指定し案内しています。
今回はその案内板に従い志摩の里巡りをしました。
他に板垣の里、小松の里、表門の里が用意されています。
写真1を参照。

上代は古墳、歴史時代には神社と仏閣しか世に伝わらないのだと解かりました。
人は生きている間だけなのですね。

志摩の里をざっと一回りして3時間のコースです。
丁寧に廻れば4時間から5時間コースかな。
観光...


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山梨県庁を観光の目玉に

2009.05.24 18:03  投稿者:ootaminoru

宮崎県知事はパーホマンスで宮崎県庁を観光資源に変えた。
売り物は県知事自身だけれどもその場を県庁に振った。
山梨県知事横内正明氏にそれを望むのは無理だ。あのカメラから目線を外して早口に喋るスタイルは人気が出ません。
官僚出身者だから仕方がない。

山梨県庁自身が観光の活性化の資源そのものにならないかと考えて、そこで考えたのが山梨県庁の建物や庭です。
そもそも県庁敷地内は甲府城の城内だった。しかしその遺構は現在目に触れる姿では保存されていないが柳沢吉保、吉里時代からの遺構地割が解かっています。
隣の甲府城と合わせて甲府城として見学すれば広い臨床感が満喫できるだろう。

県庁の建物は南側別館が昭和5年の物だ。観光企画課、観光振興課が入っている建物は昔は初代県立図書館でこれも昭和5年だ。議会議事堂が昭和9年だ。
明治以降の建築物は近代化遺産と言い、骨董価値が出てきましたが日本のその時代を代表する建造物としてはやや個性が少なくインパクトが低い感じがする。
それは明治末期の大水害の後遺症で貧乏県なため機能性だけを重視し...


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狛犬さん ワン

2009.05.21 17:19  投稿者:ootaminoru

狛犬さんの起源は中国で皇帝が就務する部屋の四隅に皇帝を守護する為に持ち込まれて魔除けとして置かれていたものらしい。
日本には奈良時代に既に持ち込まれていて正倉院の裏の000堂には木製の小さな置物用のものが現存するらしい。
それ以来、神社には狛犬さんとして神社の本殿を守護するために参道に石造で置かれ、一方寺院仏閣では仁王さんや寺の桁の守り神として広く使われようになった。
鬼面瓦なども転じたものかもしれませんね。
沖縄ではシーサーとか言ったかな。屋根や門柱に乗っかっているようです。

狛犬さんのモデルは架空の動物であったり、犬のチンがモデルであるとかその道のマニアは研究熱心です。更にどちらかには頭の上に角があるそうですね。

写真1と2は裏の五十嵐さんちのポチです。
既に二度三度と私のブログに登場しています。
この犬も番犬です。五十嵐さんちを守護しているのです。
邪悪なものを寄せ付けません。狛犬さんと同じなのです。
しかし善良な市民には実に優しい目をしています。
恐い顔をしていれば良い訳ではありません。
ましてや人を見...


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美和神社

2009.05.21 14:12  投稿者:ootaminoru

古い時代からの由緒ある神社です。
日本武の尊の仲介により奈良の三輪山の三輪神社から甲斐の国の000が勧請し創建したのが美和神社だそうです。祭神は国つくりの大物主尊です。
180人の姫を誕生させて国つくりに励んだそうです。

武田信玄も勝頼もそして義信も戦勝を祈願して、叉天変地変(大水害)等の災いから逃れるように祈願し奉納しています。叉家康も奉納していますが甲斐の国の平穏を祈願したのでしょうか。
叉甲斐源氏の祖、新羅三郎義家も奉納しています。
神社の宝物からの物語です。

信玄はこの甲斐の国二ノ宮美和神社と一宮の浅間神社と三ノ宮の玉諸神社に竜王新宿の三社神社へお御幸を命じています。守護大名の権力だけではなく神仏の旧権力を動員して竜王新宿の川除けを甲斐の国を挙げて取り組もうとした姿勢がうかがえます。


御坂の県立博物館で金ゴールド展の帰り道立ち寄りました。
境内の広場で子供たちが砂子埃を立てながら大声を張り上げて走り回って遊んでいました。
狛犬さんが一対居ました。動と静の平和を感じました。

ここの狛犬さんは武田神社の...


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黒川金山遺蹟

2009.05.20 18:05  投稿者:ootaminoru

何故武田軍団は強かったのか?

最近、甲府市の駅前、県民プラザへ来るお客様は県内の人が多い。
私は県民プラザの武田ワールドで観光のお客様に問いかけます。
そして私は次のように(私なりの解釈で)ご説明します。

①信虎がピラミッド状の家臣団を形成した。それを引き継いだ。
②兵農分離を当時としては最先端の程度まで進めた。(武田城下町の
 形成)
③金山経営による軍資金の調達
④臨済宗の僧侶より中国の知識や兵法を学んだ。
⑤甲州ご法度55か条の制定
ETC

しかし県内のお客様はこれでは納得しません。
武田信玄公の人望と度量の大きさ。即ち個人崇拝の英雄をご自分から話さないと納得しません。勝頼は器では無かったんでしょう。
で締めくくられます。

武田軍団を支えた経済的基盤は金山経営の部分が大きい。(直営ではなく金山衆なる独立の技能集団)
戦争は今も昔もお金が掛かります。
武田の金は黒川金山、湯の奥金山がその主力だった。

平成21年4月25日~6月15日まで県立博物館で「金ゴールド」の特別展を開催しています。
そしてその中の最後のブースは甲...


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山梨百名山黒川山鶏冠山8

2009.05.19 20:28  投稿者:ootaminoru

黒川山、鶏冠山。5月18日

この山を有名にしているのは戦国時代に金を産出した黒川金山谷の地であることです。

塩山から柳沢峠を越えて約2kmの丹波方面に411号線を下り林道泉水横手線に入り奥まった新横手峠から歩きます。
徒歩で約5キロの地点に黒川金山遺蹟があります。

その金山遺蹟の頂上が黒川山(1716㍍)であり鶏冠山(1710m)です。
鶏冠山頂上には鶏冠神社があり黒川金山を守護する神社でした。

黒川金山遺蹟は昭和61年から3年間、東大と学習院大学等が発掘調査しました。
谷沿いの斜面を290箇所も平に造成された地があることを確認し全体320位あったと推定しているそうです。それらの規模からこの鉱山で働く人は凡そ1000人位に推定できるそうです。
武田軍団の経済的側面を荷った金山開発です。
武田勝頼の頃はもう枯渇して金の産出がないとの古文書が残っています。

写真1  黒川山頂上
写真2  鶏冠山頂上
写真3  東京都水道局の水道水源林です。手入れが施されて登山道も綺麗    です。奥多摩湖のオゴウチダムに水が流れま...


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続、黒岳で出会った花達

2009.05.16 17:24  投稿者:ootaminoru

これ等の花は黒岳独自の花ではない。
何処の山にも比較的容易に見られる花です。

でも黒岳にあったんです。
黒岳を構成する印象に残る花だったんです。

写真1 ミヤマエンレイソウ  ユリ科

写真2 ボケ  バラ科
    このボケは一株しかなかった。鳥か動物が果実を食べてその糞に種    をこぼして行ったものかもしれません。
    1600メートルの高地では勢力を伸ばすのは難しいかもしれません。

写真3 マムシグサ    サトイモ科
    テナンショウ


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黒岳で出会った花達

2009.05.15 16:59  投稿者:ootaminoru

花達は観光ルートの構成員みたいなものに思えて記事のカテゴリをオリジナル観光ルートにしました。

「山路来てなにやらゆかしスミレソウ」この俳句も何処にでもあるスミレソウを俳人は特に印象深かったのか詠んでいます。
結局、その人のその場の感性が際立ったときにオリジナルな観光になるのでしょう。
広く万人にその確率の高いところが観光地と呼ばれるのだと思う。

観光地で何を見るか?それはその季節に、その人の感性に依るものだと思います。定番はないのだと思います。

写真1  カンアオイの種類。名前は?
     常緑のカンアオイよりも落葉性のフタバサイシンに近い種類
     だと思う。葉は丸くフタバサイシンと異なります。
     葉の下の地上に隠れるようにして小豆色の花が咲いています。
     カンアオイの系統はギフ蝶や姫ギフ蝶の食草です。白馬から
     仁科三湖の山付き(遠見尾根等)で春のある時期に羽化して
     カタクリの花の蜜を吸いに来ます。春の妖精と言われています。
     ギフ蝶は国蝶で天然記念物だったと...


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御坂峠の山ノ神

2009.05.14 19:40  投稿者:ootaminoru

5月11日に御坂峠から黒岳を登山しました。
その御坂峠の山越えの道について記載します。
この道は文化庁の歴史の道100選に剪定されています。

御坂路は鎌倉街道、鎌倉往還、駿州東往還、甲斐路とも呼ばれています。
古代には東海道から甲州に入る官道です。
国府(春日井らしい)叉は国衛から金川を渡り黒駒の藤ノ木から峠を越えて河口湖にいたり山中湖から篭坂峠を経て駿河にいたる道です。
峠の少し高台に入った辺りに木造の祠がありその中に石造がありました。祠も石造も質素なものですが役割はハッキリしているように思います。

姿形からそれが山ノ神であるかどうかは解かりませんが、私はそうだと思いたい。
旅人が藤ノ木の登山口で旅の安全を祈願して三ツ星神社に御参りして登山道を登って行きます。
そして峠では山の神様に会い下山の安全を祈願して下って行く。
昔は旅の安全は現在と比べられないくらい深刻で真剣なものだったでしょう。
河口湖側にも河口湖浅間神社がありそうした役目もはたしていたと思う。

藤ノ木側にも河口湖側にも途中の登山道の脇に巨木が残っ...


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山梨百名山八ヶ岳7

2009.05.14 16:57  投稿者:ootaminoru

山梨百名山には八ヶ岳として赤岳、権現岳、編笠岳の三座が含まれています。しかしながら、山梨県側からこれ等三座を含む峰に登山する登山者人口はめっきり少ないと思う。

統計的な数字は今回持ち合わせていませんが「山梨百名山」平成10年3月30日山梨日日新聞の本に依りますと「赤岳」のP8に次のように記しています。
ここ十年ほど、八ヶ岳の登山者は減り続けている。山梨、長野両県警の統計に依ると1980年代の後半年間9万人で推移していたが。91年には7万1千人、93年では6万人台になり、96年にはやっと7万人台に回復したものの長期低落傾向である。、、、中略、、、
赤岳登山者の入山口はかっては山梨県側が圧倒的だった。清里から県境尾根、真教寺尾根をたどって山頂へ。
夏は登山者の列が続いた。

主役を長野県側に奪われてニ三十年になる。
今、山梨県側からの登山者数は長野県側の十分の一程度だろう。
原因の一つを自治体の登山道路整備費でみることができる。
長野県茅野市は年間ニ百万円。山梨県側は山麓の四町村合わせて二十~三十万円。茅野市...


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続マンホールの蓋

2009.05.13 04:59  投稿者:ootaminoru

マンホールの蓋は観光資源になり始めて?います。そうかなー。
世の中は何でも収集の対象です。
日本百名山、山梨百名山、郵便切手、世界遺産そしてマンホールの蓋、ETC。

写真1は 甲府市の新しいと思われるマホールの蓋 甲府市の花のナデシコが彫られています。汚水です。

写真2は 昭和町で源氏蛍の里です。

写真3は 旧田富町で町の花のバラです。汚水です。

本来は人間や自動車のスリップ止めのための幾何学的な模様から出発しここまで進化して来たのだと思います。

全国を旅して、叉は県内を歩き廻りマンホールの蓋を写真に撮ったり、拓本に取ったりが流行るかもしれません。
その為に旅をする。そんな平和な時代が来るかもしれません。


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山梨百名山、黒岳6

2009.05.12 21:21  投稿者:ootaminoru

国中と郡内を隔てる御坂山塊で最高峰の黒岳(1793㍍)へ5月11日行って来ました。
幾つかの登山ルートがありますが、鎌倉街道と呼ばれる御坂峠の頂上から尾根を西に取り約1時間の黒岳です。
御坂峠へは御坂上黒駒のどん詰まり藤ノ木から歩きます。
江戸時代以前からの古道を歩きます。

御坂峠からの尾根道は標高1600㍍以上でミズ楢などの落葉樹が目立ちます。
黒岳に接近し高度を上げて行きますとブナ林に変わります。
そして頂上付近の1700メートルには桜が満開でした。
種類は異なると思いますが北海道の中標津では現在桜の開花が進んでいると藤ノ木へ向うラジオで報道していました。中標津の気象と御坂黒岳のそれとはほぼ同等という事らしい。北海道の中標津の桜は千島桜だろう。御坂の桜は富士桜?だと思う。

何故黒岳と名前がつくのだろう。
特別黒いと表現するものは見当たりません。
頂上付近はブナの原生林であり黒くはない。

甲斐国誌にはこの山を小菅山と呼んでいるといいます。
1894年(明治26年)の山梨県市郡村誌には小菅山、黒岳と記載されているそう...


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甲府市のマンホールの蓋

2009.05.10 17:19  投稿者:ootaminoru

雨水、下水のマンホールの蓋はその市町村の観光資源を凝縮して1枚の鉄板に描いてあるところが多い。

然るに甲府市は幾何学的模様で最近の時代の流行を追わない古典的な模様が描かれています。
甲府市の最新の絵柄は別にあるかも知れませんが、甲府市愛宕町から元紺屋にあった三種類をここに掲載しておきます。

本来、マンホールの蓋に描かれる絵柄は自動車や人間がスリップし難い幾何学的模様が伝統的だったのではないかと思います。
ところが何時の時代か、観光を重視しはじめた頃から市町村ではその自治体を代表する観光資源を描くようになってきた。最初は観光立地の横浜市や神戸市などなどだったらしい。その内、猫も杓子も綺麗な絵柄を競いカラーで塗装した蓋のオンパレードになった。

ちなみに全国で一番最初のマンホルの蓋は横浜市だったそうで明治時代に外人居留地に下水道を引いた時にマンホールを設置していたその時に点検整備用に設けたそうです。
どんな形でどんな材料だったか、絵柄は?判っていないそうです。

写真1はどんな所にあるかお解かりでしょうか。
解...


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曲岳、黒富士で出会った花達葉っぱ達

2009.05.09 02:49  投稿者:ootaminoru

写真1 十二単
神奈川から引越して来た友がカエデのことを十二単と言うのだそうだ。
そうなんだ。

写真2 トリカブト
鹿や猪が増えるとトリカブトが増える。そんな気がします。
何処の山へ行ってもトリカブトがいっぱい。

写真3 エンゴサク
エンゴサクはアジサイのように色が微妙に異なるものが多い。
ブルーから赤みを帯びたものまで。


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鹿の食害、ガイドブック、標柱

2009.05.09 02:28  投稿者:ootaminoru

鹿の食害が酷い。
ハンターが居ないらしい。

鹿が増えすぎて冬季に食べ物が少なく樹木の樹皮を剥離して食べてしまいます。その樹木はやがて枯れてしまいます。
曲岳、黒富士の周辺のミズナラ林は食害の跡が目立ちます。

山梨百名山を歩くには写真3で紹介する山梨日日新聞社の「アタック山梨百名山中高年の為のガイドブック」 が登山をする為にはガイドブックとして適当かと思います。

私は平成10年3月初版の「山梨百名山」を持っていますがこれは山に関する概念としての知識を得る読み物としては適当ですが、登山する為の登山基地に場所、コース取りや所用時間などは先の本のほうが詳細で向いています。
山梨新聞社の宣伝をする立場にいませんが、もし、私の主観的な山の文化論をお読みになって誘発される方にはどうぞ安全で楽しい登山を目指してください。

前後しますが写真2は黒富士の頂上からかなり離れた金峰山を撮影したものです。
尚、山梨百名山を巡礼する人はその証拠として標柱を入れた記念写真を撮っているようです。その標柱は山梨県で統一してあって写真のも...


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山梨百名山4,5曲岳黒富士

2009.05.08 08:30  投稿者:ootaminoru

敷島の清川奥へと林道を自動車で進めて観音峠に駐車。
そこから曲岳と黒富士岳へ平成21年5月1日行って来ました。

清川の奥へ相当入り込んだつもりであるが清川バス停から約6キロです。
瑞垣山や金峰山が遠くに見えるのでそれ程でもないらしい。
しかし曲岳、黒富士共、既に林道部分の標高が高く登山する標高差はなさそう。夫々1600㍍余りの山へ、山梨百名山に指定されていなかったら登りに来なかった山に違いない。
昔は須玉方面からこの山中を通過して金峰山への登山路だったそうです。今はその方面からの登山は皆無に近いだろうから甲府盆地の清川方面からの百名山巡りで曲岳、黒富士を狙う人ばかりでしょう。

そうした意味から「山梨百名山」を山梨県が制定した事は人が訪れるようになったと評価されるべきだと思う。
訪れる人は殆どが山梨県人だと思う。県外の人が山梨百名山を巡礼する事は少ないと思う。

曲岳も黒富士も標高こそ高くなく、特別遠くからの景観も際立った存在ではないが林道から登ってみると驚かされる。急な斜面を登ることになります。
この辺りの...


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明治の養蚕を支えた一瀬桑

2009.05.07 12:42  投稿者:ootaminoru

自慢話は客観的に地域社会に共有するものは臭くない。
おさらいの意味でもう少し旧三珠町の自慢話にお付き合い下さい。

1 養蚕産業を支えた桑

明治34年上野村(旧三珠町=現市川三郷町上野)の一瀬益吉氏は明治時代に桑の代表品種を選出育成した。
明治31年一瀬氏は忍村(旧豊富村=現中央市)から桑の苗を仕入れて自家養蚕用に育てた。その中に生育旺盛で大きな葉の良質な桑の一本を見つけた。
それが評判で次第に周辺の地域へ広がっていった。そして大日本蚕会の認めるところとなり栽培配布が行なわれて明治時代以降の桑の代表品種となった。
後年、一瀬桑の母樹が市川三郷歌舞伎公園に記念樹として植えられています。写真1
既に100歳を越しています。

2 芦川第一発電所

我が国の電気事業は明治20年に移動式発電機によって東京の鹿鳴館に白熱電球が点灯されるのに始まりました。
移動式の意味は小型であった意味から実験機であり火力発電(石炭)であったことを意味しています。
我が国の発電の歴史は火力発電から開始されているそうです。

明治33年5月に当時の上...


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農道に牡丹咲く市川三郷町

2009.05.07 11:41  投稿者:ootaminoru

農道に牡丹咲く旧三珠町です。

牡丹の背後は桃畑であったり蔬菜畑であったり。
広域農道をこの時期に走っていると牡丹の花が沢山見られます。

尚、市川三郷町(旧三珠町)には「三珠の湯」があります。
昨日の5月5日は雨降りで連休中ですが何処へも出掛ける場所がないのでここは頑張って、清水の舞台から飛び降りる気持ちで一人700円を奮発して家族で三珠の湯に行って来ました。
ザーザぶりの雨なのにいっぱいの人が来ていました。
どうしてこんなに沢山人が来ているの?

なかなか評判が宜しいようです。

県内では特にホッタラカシの湯が有名ですが地域振興の場として各市町村に温泉があります。ここ三珠の湯は周辺の住民に親しまれてニーズに合致して大繁盛の様子です。食事が出来て、エステがあって。お土産品を売っていて。
一時代前のヘルスセンター、健康ランドみたいな機能をしています。

近所、普段着の地域内の観光ですね。
インターネットなどの情報網が発達して遠方からのドライブ客が訪れるようです。カーナビがあるのでドンドン入って来ます。

新しい観光拠点であ...


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市川三郷歌舞伎公園

2009.05.07 10:52  投稿者:ootaminoru

市川団十郎の発祥の地として合併前の三珠町が建設した三珠ふるさと公園(平成6年1994年4月)です。
現在は市町村合併で市川三郷町の「市川三郷歌舞伎公園」と名前を変えています。
4月下旬にはこの公園に沢山の牡丹が咲きます。
写真の撮影は4月21日でブログに出し遅れてしまいましたが、是非来年に思い出して尋ねてみて下さい。

ここの公園の売りは市川団十郎発想の地に相応しい歌舞伎資料館があることと、庭園に牡丹が咲くことです。

叉歴史的にはこの地は武田信玄の異母兄弟の一条右エ門信龍が築城したと言われる上野城の地であり、武田二十四将の一人です。
武田勝頼の時代に負けて一族は千葉に逃げます。その家臣団に市川団十郎の祖先がいた事になっています。天正壬午の戦いで甲斐の国は家康軍と北条軍と上杉軍の三つ巴の切り取り合戦が繰り広げられます。
恐らく一条軍団は北条方を頼って敗走したものと思われます。
これは私の推測。

現在、市川団十郎は11代目だそうです。

この公園にはお城のような建物「歌舞伎文化会館」が建っていていますが
これは時代考...


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山梨百名山3、櫛形山

2009.05.07 10:42  投稿者:ootaminoru

櫛形山4月17日

茅ガ岳ついで昇仙峡の羅漢寺山に続いて山梨百名山の三番目です。
順序、月日不同で掲載します。
イメージして文章化に時間が掛かるからです。

この私の登山シリーズは登山ガイドブックではないし、正確な山の紹介書ではありません。それらは山梨日日新聞社から発行されている「山梨百名山」及び「山梨百名山登山ガイドブック」を参照していただきたい。
ですから所要時間がどうだとかこうだとかは書きません。

ここでは私の身体を通過したその山の風を描いてみるだけです。
誇大妄想であり偏見と独断での私の文化論です。
そもそも登山とは一つの文化活動でありまして、その人の主観的な感覚を披露しますので何か共感するところがあれば儲けものだと思って下さい。

櫛形山は2051㍍の低い山ですが全国区で知れ渡っている山です。
それは「花の百名山」著者田中澄江 という名前の登山ガイドブックがあってそれに掲載されているからです。
もう亡くなられましたがエッセイ作家、随筆家の著者が、1981年(昭和56年)に発表した随筆集がたちまち人気が出て...


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右左口峠で出会った石仏

2009.05.06 08:53  投稿者:ootaminoru

ここの石仏は皆、観音菩薩です。
馬頭観音菩薩、千手観音菩薩、如意輪観音菩薩、聖観音菩薩、地蔵観音菩薩です。

観音菩薩信仰取り分け地蔵菩薩信仰は1700年代から盛んになります。1800年代の文化文政の時期のものが多いようです。1700年代の頃から庶民の墓(庶民の殆どは百姓)が出来初めて少しして納棺式の先祖代々の墓が出来始めます。それまでは土葬で土饅頭だけか丸い石を乗せた一代限りのもので少し経つと特定が困難になる程度のものだった。

観音霊場めぐり等の信仰と観光を兼ねたお遍路が流行し始めます。
富士講もその頃ですし、お伊勢参りや月山参りなども同じだと思っています。

街道に特に追剥や盗賊に遭い易い峠道に石仏を建てる信仰心は近郷の村の篤志家の浄財によって建てられたものが多いようです。
旅はその頃、現代と比べて危険度が高くもっと緊張感があったでしょう。

写真1は馬頭観音菩薩

写真2は千手観音菩薩

写真3は千手型馬頭観音菩薩です。
    馬頭観音菩薩は初期の時期は憤怒像です。顔も三面描かれていま     す。手が沢山あ...


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右左口峠で出会った花達(2)

2009.05.06 07:41  投稿者:ootaminoru

紫ケマンは少し標高の高い(涼しい)田圃の畦などにも見られます。
恐らくケマンの意味は難しくて解かり辛いでしょうね。
仏具の一種で花を形どったすかし入りの銅板のようなものですが私も詳しくは知りません。

黄ケマンは紫ケマンよりもやや高地に分布しています。
両者共にケシ科植物です。


写真1 紫ケマン

写真2 黄ケマン

写真3 イチリンソウ


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右左口峠で出会った花達(1)

2009.05.06 06:22  投稿者:ootaminoru

4月20日右左峠で出会った花達

写真撮っても花採るな。
5月4日古関(旧上芦川)でクマが出たんだって。
熊の写真撮っても熊獲るな。

写真1  カタクリ

写真2  イカリソウ

写真3  ヒトリシズカ
 


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右左口峠(迦葉坂)

2009.05.05 10:22  投稿者:ootaminoru

阿難坂(女坂峠)に先立ち別な日に中道往還の右左口峠(迦葉坂)へ行って来ました。
この右左口峠道は旧八代の曽根、中道(右左口宿)から右左口峠を越えて下芦川へ下ります。そのすぐ上に間宿として上芦川の古関があります。
古関から阿難坂を越えて精進村に下ります。
二つの峠がある訳です。

右左口峠の事を迦葉坂と言うのは右左口宿に浄土宗の迦葉山尊敬泉寺があります。そこから名前が出ていると思います。

現在、右左口宿の集落の外れから峠までに20体の石仏が残されています。その内のかなりの数は台座だけで石仏の本体はありません。
叉聞く所に依りますと右左口宿の集落の外れから山裾部分の街道にもたくさんあったそうですが現在はなくなっています。
売れるんだそうでですね。海外に出てゆくとか。
困ったことです。祟りで対向するしかないでしょうね。

石仏は馬頭観音、千手観音、聖観音、如意輪観音などなどです。
頂上の峠の高台に一対の石の祠があります。
私はこれが山の神だと思います。写真2がそれです。


平成21年4月20日に行って来ました。カタクリやヒ...


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中道往還精進の宿

2009.05.05 07:38  投稿者:ootaminoru

中道往還は若彦往還(大石峠から河口湖へ)と河内往還(富士川沿いの道)の中間に位置し八代の中道(左右口宿)から迦葉坂(右左口峠)を越えて下芦川に下り古関から阿難坂(女坂峠)を越えて精進湖の精進村に達し本栖湖湖畔から現在の富士宮市に至る街道です。

戦国時代には駿河から叉は甲州側から出兵し通過した道であったし、徳川家康や織田信長もこの峠を通ったとされています。

精進湖の精進村にはその街道の宿をイメージする茅葺の民家が何軒か残っています。
その集落は健在ですが一番山付きの茅葺民家は何れも廃屋です。

今回、古関側から阿難坂の全コースを歩く計画を建てましたが昭和41年の災害で精進湖隧道の古関側までの道は崩壊し歩けませんでした。精進湖隧道の古関側からは古道が明確で途中崩落した場所もありますがそこから阿難坂(女坂峠)を越えて精進湖畔まで歩いて来ました。

中道往還全般については項を改めて書くとして、ここでは近い将来見られなくなるであろう精進村の往時の茅葺家屋を紹介しておきます。

この道は駿河から甲府まで最短距離の道と...


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秩父往還栃本関所

2009.05.05 05:44  投稿者:ootaminoru

秩父往還は江戸時代に整備されたものですが、その始まりは戦国時代武田信玄が秩父に進出し更に関東に進出するときにその街道の警護を固める為に既に関所を設けて中山氏を配していたといいます。
そもそもこの街道はヤマトタケルノ尊が関東や東北へ出兵のために通過したとされるルートであり、大変古い街道です。

秩父側の山中に栃本関所跡が残っています。

関所の前に説明版がありましたので簡単に要約してみます。
慶長19年(1614年)秩父は天領で関東郡代伊奈忠治が藩士??に任じて大村氏を関所役人とし世襲で幕末まで役職に着いた。
ここ一箇所の関所では不十分なので寛永20年(1643)、旧大滝村麻生に甲州側には三富川浦とに加番所を付設して警護を強めた。
予め川浦と麻生で夫々通行手形を見せてハンコを押して許可されたものが栃本関所にやって来るシステムにしてあったそうです。

川浦加番所は甲州側の諸事情に明るい役人だったと思う。恐らく世襲制で地元の人間を取り立てて採用したものと思う。

そもそも関所の役割は関東側(江戸)から出女、関東側(江...


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