富士川舟運をたどるツアー
2016.03.06 20:00 投稿者:ぶどうおばさん
2016県民コミュニティーカレッジ「栄えていた富士川を思い起こす旅」というバスツアーが実施されました。
かつて多くの舟が行き来し、甲州と駿河を結ぶ大動脈となって物や人を運んでいた富士川舟運の全盛期(江戸時代~明治末期)をさぐり、どんなふうに利用されどう変遷して行ったのか・何故廃れてしまったのか等、現在残されている建物や写真を見て人々との関わりの歴史を考えるツアーです。
このツアーは、県内の一定地域の良さを発掘し発信するというテーマのコンテストで最優秀賞に見事輝かれた山梨県立大学の学生さんのグループが立案・企画し実施にこぎつけたツアーとの事です。
一般の参加者40名に県立大学の学生さん7名、身延山大学の学生さん3名がスタッフとして加わり、各訪問場所では観光ガイドさんや地元の方が説明をして下さるという予定です。 行程は
甲府駅
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大野山 本遠寺(おおのさん ほんのんじ)
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身延山 久遠寺
三門の十六羅漢像 五重塔 菩提梯
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昼食 国本屋(くにもとや)
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富嶽三十六景のビューポイント
葛飾北斎の「甲州石班澤」(こうしゅうかじかざわ)が描かれた場所
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小原屋原田商店 塩蔵
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富士川写真美術館
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富士水碑(角倉了以の碑)
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道の駅 塩の華
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甲府駅
大野山 本遠寺
この近くに鰍沢の船着場があったそうです。
徳川家康の側室お万の方が帰依した寺で葵の紋が多く見られます。
身延山 久遠寺
富士川舟運(ふじかわしゅううん)を人々が利用した理由は、年貢米・ぶど
う・味噌等を鰍沢から積み込み川を下り静岡で荷物を降ろし、塩・魚・油・
みかんを積んで川を遡って鰍沢に陸揚げするという荷物の搬送の他、身延詣
の人々の足として使われた事にあります。
日蓮上人が創始した日蓮宗の総本山久遠寺は「南無妙法蓮華経」と唱え救わ
れることを切望する民衆の熱い信仰の対象で、富士川の舟の便利さは身延詣
に拍車をかけたようです。
総門を抜け三門に至ると287段の石段(ぼだいてい)が続き、その先に
祖師堂・五重塔・本堂・報恩閣・御真骨堂・仏殿・客殿他多くの堂が建ち並
んでいます。
本堂は明治8年の大火で焼失し昭和60年に再建、五重塔は133年ぶりに
平成20年に復元、祖師堂は明治8年に焼失し明治14年に再建されました
国本屋
うなぎの名店として知られる由緒ある食事処。
地元の食材で作られた「こしべんとう」と「みみ鍋」を頂きました。
小原屋原田商店
静岡から運ばれて来た塩は鰍沢で陸揚げされ塩蔵で一旦保管されました。
富士川写真美術館
新聞記者をしておられた村田一夫氏が撮りためた富士川周辺地域の200点
以上の写真は、昭和初期~30年代の鰍沢の町並みや帆掛け舟(高瀬舟)や
人々の生活の様子を克明に記録している貴重な資料です。
富士水碑
江戸時代初期、家康の命により角倉了以(すみのくらりょうい)が航路を
改修・完成させた事が舟運の始まりと言われます。
富士川の上流に鰍沢河岸、下流(静岡県 富士市)に岩渕河岸があり「下げ米 上げ塩」を
運ぶ舟は全盛期には1日800そうが上り下りしており、下りは時速10km約6時間で岩渕まで
行ったそうです。
明治36年に中央線・昭和3年に身延線が開通し、より安全により多くの人や物を運べる鉄道がとって代わったため300余年の舟運(しゅううん)の歴史は幕を閉じました。
学生さん達は皆明るく積極的で、参加者に楽しんでもらおう・一生懸命に説明しよう と努めておられるのがよく伝わって来ました。
訪れた塩蔵は個人のお宅で一般には公開されていないようですし、写真美術館もほとんど看板を道路で見かけない処なので、よくこれらの隠れた遺構を見つけて来られたと学生さん達の勉強熱心さや探究心に驚かされました。
(一つ要望があるとするなら、久遠寺での説明は住職様等にお願いされても良かったかなと思います。寺の由来等のお話は信仰の熱さや深さを体得しておられる方による言葉がより心に響くのではないかと)
今回は学生さん達の企画によるツアーということで全体の雰囲気も若やいで、彼らの飾らないひたむきさには好感を持たれた参加者も多かっただろうと思いました。説明を補足して下さった熟練のガイドさんや地元の方との連携も微笑ましく、これからの山梨の観光を担う方々の存在に心強さを感じました。
観光に携わる皆様の御活躍に期待します。
(1枚目の写真 身延山久遠寺
祖師堂 右端にしだれ桜の木)
(2枚目の写真 小原屋原田商店 塩蔵)
(3枚目の写真 富士川写真美術館)
2016年3月5日撮影
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