TOP > ブログ一覧 > ぶどうおばさんの山梨見どころ記 > 武田家の史跡ツアー

プロフィール

山梨が好きなのに、とっさには山梨の
良さを言えなくて、少々焦る甲府在住
の人間です。
山梨に関する事、甲府に関する事を
調べてレポートしてゆきます。
そうした中で、山梨の魅力を見つけ伝
える事が出来れば、と、考えています。
 ジャンルは? ....いろいろデス☆


     

ブログ内検索

カレンダー

<< 201810  
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

バックナンバー

最近の記事

カテゴリー

最新のコメント

関連リンク

武田家の史跡ツアー

2015.11.05 10:48  投稿者:ぶどうおばさん

「武田家ゆかりの史跡ツアー」が昨日行われました。
山梨県生涯学習推進センター主催の今年度の山梨学講座「山梨の文化と歴史を武田信玄から学ぶ」の数回の座学に加えて行われた野外講座です。


県生涯学習推進センターは、富士山の成り立ちや信仰・山梨の国宝と文化財・エコパークに登録された南アルプスの動植物と地質・武田信玄の人物と合戦・森林に関して木材やシカや薬草・地域に残る伝統行事など、これまで山梨に関する多くのジャンルの講座を主催して来られ県内4カ所のサテライトスクールにも配信され、本会場は聴講者定員70名をオーバーする事もしばしばある人気の文化発信拠点となっています。


今回は初めての野外実習なので大型バス1台は満席で、参加者達の期待度は高まります。
行程は
       県庁
        ↓
       信玄堤
        ↓
       武田八幡宮
        ↓
       新府城跡
        ↓
       昼食(小作で かぼちゃほうとう)
        ↓
       躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡
        ↓
       円光院、信玄公廟所
        ↓
       県庁

 信玄堤
   山梨は釜無川と笛吹川という二大河川が頻繁に氾濫してきた歴史があり
   治水は甲斐を統治するために必須でした。
   武田信玄は御勅使川(みだいがわ)が釜無川に合流する地点に堤防を築き
   洪水を減らしました。この堤は信玄堤と呼ばれます。川の中には流れを弱
   めるための「聖牛」(組んだ丸太に石を詰めた竹かごを入れたもので、三
   角形の上部が牛の角のように見える)が造られました。 この河川工法は
   戦国時代の甲州が発祥の地とのことです。

 武田八幡宮  韮崎市神山町
   平安時代末期以来武田氏が尊崇庇護して来た神社です。
   信玄が再建した本殿は三間社流造・檜皮葺きで正面三間は金箔押しがあっ
   た両開きの板戸や透彫装飾があり武田氏興隆期の力強さを誇る遺構として
   国の重要文化財になっています。
   息子勝頼の夫人が武田氏の戦勝を祈願して奉納した願文が納められていま
   す。

 新府城跡
   長篠の合戦に大敗した勝頼は、次第に追い詰められ甲府を捨てて新府城に
   移ります。翌年さらに戦況は不利になり、勝頼夫人が武田八幡宮に願文を
   奉納したわずか14日後に勝頼は新府城に火をかけ逃げますが、甲州市で
   息子と共に自刃しました。
   絵図によると平地に立つ城で石垣は無く、本丸・二の丸・三の丸があった
   ようですが現在は一面の草地とわずかな土塁跡や堀があるのみです。

 躑躅ヶ崎館跡(武田氏館跡)   甲府市
   現在はこの館跡の一部に武田神社が建っています。
   1519年に信虎がここに館を移し信玄は2年後に背後の山にある積翠寺
   で誕生しました。甲府市を北から一望できる躑躅ヶ崎館は東西も山に囲ま
   れ、城ではなかったものの土塁や堀をめぐらせ守りは堅固でした。
   信玄はここに住み長男の結婚に際しては曲輪を建て増ししています。

 円光院   甲府市
   信玄の正室三条夫人の菩提寺。
   公家出身の三条夫人は逝去して円光院という法名を与えられその名が寺名
   となったそうです。菊の御紋の墓柱のある三条夫人の墓は県史跡になって
   います。

 信玄公廟所  円光院近く
   信玄の火葬場と言われる場所。
   三条夫人の没後3年の1573年に信州で53歳で死去した信玄は3年間
   は自分の死を隠すよう家臣に言い残したといわれますが、甲府に持ち帰ら
   れた遺骸は家臣の屋敷で密かに火葬され、1576年の恵林寺での正式な
   葬儀まで安置されていたといいます。その屋敷では古い碑の下から灰と骨
   が出て来たので古碑と骨を埋戻し新しく石碑を造った(江戸時代)そうで
   す。信玄公の墓としては恵林寺が有名ですが、墓所に関するいわれは各地
   にあるようです。

信玄の時代には石垣を築き城を造る建築法はまだ甲州には伝わっていなかったそうで ”人は石垣人は城 情けは味方仇は敵” という「武田節」の一節については後世の人の脚色によるものだろうという見方があります。
信玄は戦国大名として戦いに明け暮れていたイメージがありますが、治水工事をして新田開発をしたり躑躅ヶ崎館から南に碁盤の目状に武士や商人の町をつくったり金山を開発し日本初の金貨(甲州金)を鋳造させるなど農・工・商を活性化させ民衆の暮らしの向上に努めました。
江戸時代以降は甲斐の国の象徴的人物として認識されるようになり現在も人気は格別です。



盛り沢山の行程の中、講師の先生のお話や生涯学習センターの職員の方々の行き届いた案内で、秋の一日楽しく勉強させて頂きました。
こういう野外学習の機会が増えることを期待します。

   (1枚目の写真 信玄堤と釜無川
             川の中の三角の形が聖牛)   
   (2枚目の写真 武田八幡宮 本殿)
   (3枚目の写真 信玄公廟所)
                  2015年11月4日撮影


コメント(0) | この記事のURL | カテゴリー:イベント・祭

コメント

コメントを投稿する

ボタンをクリックしてもコメントフォームが開かない方は、
お使いのブラウザのポップアップブロック機能を解除してください。

▲Page Top