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南アルプスにないもの(槍穂高岳縦走)6

2011.09.28 16:59  投稿者:ootaminoru

前穂高岳(3090.2m)頂上から富士山が見えました。
故郷の山が見えて嬉しかった。
富士山の右側手前に見えるのは位置からして南アルプスだろうか。
しかしその岩峰は何だろう。
もしかして八ヶ岳だろうか?八ヶ岳の可能性が高く八ヶ岳だとすれば赤岳だ。

写真2 前穂高岳頂上  越えて来た槍ヶ岳からの縦走路です。
写真3 前穂高岳頂上  昨晩から今朝に掛けてお世話になった穂高岳山荘           とその後ろに聳える涸沢岳です。
           ですが、大キレット同様、切り立った岩峰と岸壁
           のトラバースで気の抜けない集中力を持続しなけ
           ればなりません。
           時折休憩には信州側の眼下に涸沢カールと
           キャンプ場を見て飛騨側には笠ヶ岳を眺めて
           三点確保の連続で進みます。
   
           これだけ長い切り立った三点確保の必要な縦走路
           は南アルプスにはありません。強いてといえば鋸岳           とか、甲斐駒ケ岳の黒戸尾根になるだろうか?
           極めて短い時間だけれども。

何故私は山に登るのか?
          
私は今年70歳になりました。2年ほど前に膝関節に激痛が走り歩く事もままならないようになりました。
整形外科へ行ってレントゲン撮影をしますと軟骨が磨り減り上下の骨と骨が接触するような状態で、痛みの原因は横側から新しいバリの様な骨の突起が出て来て神経を圧迫するのだそうだ。
もう治らないそうです。
そこで歩く事によって筋肉を着けて痛みを克服する事にしました。
しかし、既に足腰の間接が硬くなって来ています。階段状の下りを歩くとき、膝に痛みを感じています。膝で柔軟に踏ん張ったり、ショックアブソーバーの役目が減退しています。
その欠陥は下りで著しく発生します。その欠陥をカバーするために下山ではなるべく衝撃を軽減する為に段差を小さくし、手を使って三点確保で進みます。特に下りは従来よりスピードが落ちて殆んどの後方からの人に先に行ってもらう事にしています。

あと5年で後期高齢者に入ります。人間として肉体的、精神的な残存機能をどこまで残せて、その機能を駆使して発揮する、その人らしい生活を過ごす事が出来るかの挑戦です。
18歳から持続して趣味として継続して来た事は登山でした。
他にも趣味がありましたが切手収集も止めてしまったし、マラソンもはしたなくなったし、写真撮影も諦めてしまったし、、、。

私は山にどうして登るのか?
それは山を眺めるためではなく人間社会を眺め、更に自分を見詰めて眺めるために登っている部分が多いです。

その事は恐れ多い事ですが仏教の信仰への修行の道に、その多くは山岳修行が行われます。又本来の寺とは修行の場であり、経のある場であり、先達のいる場でありますが、そのお寺には「まるまる山」と書かれています。
山岳修行と切り離せないのではないかと思っています。
恐らく経を詠む訳ではありませんが登山はそれと似た心理状態を作り出しているのでしょう。
一心に一人でなにも考えないで長い時間歩く事は感情から離脱し、その感情に支配される邪念を断つことにより、本来自分がしなければならない道が見えてくるからです。
人間は沢山の煩悩を持っています。賢そうな事を言っても煩悩に支配されていると言っても良いかもしれません。
下界での複雑な人間関係や雑事に追われて疲労し自分を見失いがちです。その解消のためとの位置づけとして登山をしに行くわけではないのですが、結果として下山するときは付き物が取れて見違えるように自分のしなければならない優先順位が整理されその事が結果として元気になる事がしばしばでした。

釈迦が修行ではなかなか悟りの心境に到達できなかった勉強や荒行を、座禅を組む事によって悟りの境地に至ったとの故事から、脳生理学的に無我の境地に入るには一定のリズムの持続が効果的らしい。座禅もひたすら座して心を落ち着けますが、山岳をひたすら何も考えないで目の前の難関を突破し続け、持続して歩くのも同じ効果が得られるのかもしれません。
仏教の修行として難しい教義を経から受けて、学問的には物知りにはなれるでしょう。世俗的な高僧の多くはそうして仏門の階段を登りつめて行くのでしょう。しかし、問題はどのようにして邪念、煩悩を立つのでしょうか。
物知りは釈迦と同じ道を進んでいるとは言えません。
仏法知識を語り及び経を読むことにより又、作法を売り物にしている似非坊主に過ぎません。
禅宗が大切にしているのは学問も大切ですが釈迦が悟りを開き解脱するときの作法として、ひたすら座禅を組む事によって達せられたと言います。
座禅を組む作法が何よりも大切だと言います。
恐らく、登山は同じ心境に入りやすいのではないでしょうか。
そんな事も手伝って、なんとなく長い間登山と言う趣味を継続して来ました。
文章にすると大げさに何か意味があるように書かねばなりません。その事が私の真実から離れてしまいがちです。お詫び致します。

これからもゆっくりでも良いから登りたいと思っています。


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