十郎川護岸工事中
2010.02.07 08:45 投稿者:ootaminoru
十郎川の護岸を工事中です。
1月9日山梨学院大学へ青沼通りを里吉の方から蓬沢を経て濁川を渡って国玉の玉諸神社の前を通って裏から行った。
そしたら十郎川の護岸工事をしていました。
十郎川は山梨学院大学の裏の場所で善光寺、酒折方面からの濁川と合流し左右からぶつかるように夫々大きく90度方向変換し南に流下し西高橋、東油川を経て落合で笛吹川に合流しています。
途中東油川では平等川とも合流しています。
ですから山梨学院大学のある酒折、玉諸神社のある国玉、そしてすぐ下の西高橋は河川の左右から合流する水害常襲地域だったと想像します。
押し合いへし合い大雨の度に河川は氾濫し合流点は移動して流路は変わっただろうと思います。
その合流点の付近に鎮座しているのが玉諸神社です。
古の時代から此処を治める豪族や地域の百姓の手で水防工事が行なわれていたと思われます。そうした暴れ川を鎮める為の祈りの拠点であり、人々の水防に掛ける人心を集めるシンボルだったのではないかと思います。
此処の神社の看板には甲府盆地湖水伝説や水に関係する逸話が残っています。起源は日本武ノ尊に行き着きます。
その十郎川は明治時代以降に河川の改修や護岸工事が行なわれていたと思いますが、現在に至るまで何となく古い時代の面影を残していたどぶ川でした。
今回は大型重機を導入して大々的にやっています。注目するのは護岸はコンクリート製ではなくステンレスで編んだ蛇籠に石を積めてステンレス蛇籠の玉石の護岸です。
付近の工事現場には川底の土砂を掘り返し積み上げています。何か古い時代の柵や石塁や人骨でも出て来ないかと積み上げた土砂を見ますが簡単に素人が見えるわけないやね。何もなさそうでした。
この国玉の地域(玉諸神社)は古い時代から水防の要の地として神社を置いて人足を集める河川土木事務所集合場所だったと思う。
国玉とは甲斐の国の最も大切な場所(この場合の大切な場所とは水防の要ではなかったか)を言い表しているのだと思う。その位、住民を煽てて良い気持ちにさせないと人足は集まらなかったと思う。
話は脱線しますが玉諸神社は甲斐の国に二つあります。甲府市国玉ともう一つは塩山市塩山3048にあって此方の祭神は水晶玉です。タマではなくギョクと言って下さい。
平安時代の天長2年(西暦825年)甲府盆地に大水害が発生し淳和天皇の勅使を派遣してお神輿を担ぐ水防祭をおこなしめている。山梨郡一ノ宮の一宮浅間神社(当時は八代郡であったかも)、 二ノ宮として八代郡御坂の三和神社)、そして山梨郡の国玉に三ノ宮として玉諸神社を指定し延喜式内社神名帳(延喜5年=927年)に記載の官社としています。
そして一宮浅間神社から二ノ宮三和神社そして三ノ宮の玉諸神社へお神輿が立ち寄り揃って甲府市の荒川の畔の上石田の三社神社へ巡幸していた。
古来の御幸はここまでだったと考えられています。荒川の川除けです。
更に後年、信玄の時代に武田信玄は竜王へ川除けの為に上石田の三社神社へのご巡幸を延長して叉は途絶えていたものを復活させるように命令しています。
領主と言えども、人集めには神社仏閣への民衆の信仰心につけ込んで権威と権力総動員しての竜王の川除けの川普請だったのでしょう。
昔は甲府盆地内の国玉であり玉諸神社の威厳と水防工事の要の地でした。
全国的に見た最近では山梨県がどこにあるかさえ見えなくて、この地に山梨学院大学が知れ渡り有名になっています。福沢諭吉は明治時代の初めに「国家あって国民なし」と言ったそうです。
オイラが思うには「学院あって山梨県なし」です。
学院の地籍は酒折ですが現在の国玉と言っても差し支えないでしょう。
御前は何をしに行ったかか?
生涯学習「山梨の農をつくる人々。 山梨の農育食育シンポジューム」の聴講です。社会に広く公開されています。
駅伝やサッカーやオリンピックだけではないのです。
写真1は十郎川河川堤防改修風景です。遠くに白根三山が見えます。
写真2は玉諸神社
写真3は山梨学院大学キャンパスのブロンズ像です。
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