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甲斐奈神社

2010.02.02 21:10  投稿者:ootaminoru

甲斐の国(現在の山梨県)には甲斐奈神社が三つあります。
県外にはないと思います。
甲斐とは現在の山梨県を表し、律令政治が開始された七世紀中頃から後半には甲斐の国名が既に被せられていました。
一般的には孝徳天皇、中大兄の皇子が活躍した大化の改新(646年)頃に律令政治が整ったと言います。実際はそうではなくもう少し後らしい。
甲斐国の公印の押したものが奈良の正倉院にあります。
既にその頃から私達の郷土は甲斐の国だったのです。

しかしその語源は難しく一般には山の峡(カヒ=間)つまり山々の狭間を意味する「峡=かい」からの由来だと言われていましたがどうもそうではないらしく「交い」の新説が有力になって来ました。
古事記、日本書紀、万葉集が書かれた上代には仮名が現在のものと異なり未成熟期であり上代万葉仮名に用いられた表音仮名遣では発音上の違いから峡ではないとの説が指摘されるに至った。
「峡」説もそれ程古くからのものではなく江戸時代の国学者萩原元克、本居宣長が天明3年(1783年)に言い出してからのことであり、それ以前は何も判っていなかった。
「交い」説は山梨県立博物館の平川南館長(古代史専門)が最近発表されたものですが古代甲斐国が官道である東海道の枝道があり東山道の交わる位置にあり東国支配には重要な場所であった。叉北陸道とも交わる位置にあった。
国名は中央集権の律令国家の支配の都合によって命名されたものが多く「交い国=甲斐国」もそれに順ずるとするものです。

「交い」叉は「峡」がどうして律令政治が行なわれた7世紀に甲斐の漢字となったのか?そこのところが今ひとつ私には解かりませんが当て字なのでしょうか?
話が長くなりますので最小限の説明にしますが万葉集に甲斐の国を詠んだ歌が一首あります。そこに枕詞として「なまよみ」があります。
現在のところ、半ば黄泉(よみ)の境界となる国ではないかと言います。
これがどうも一番古い時代の甲斐の国の呼び名だったらしい。

それはともかくとして「甲斐」の冠する神社名があります。即ち「甲斐奈神社」です。
「奈」とは人が沢山いる所、村や町を表しています。
従って「甲斐奈神社」とは甲斐の国の賑やかな人の多い場所、即ち国造、国衙、国府等に建てられた最も権威のある古くからの官社の神社という事になりそうです。甲斐の国の神社を束ねる総社とも言います。

ですから、山梨県に在住する者で歴史を尋ねて巡礼する向きには一度は騙されたと思ってこの権威ある神社に御参りするのが筋です。
八幡神社は清和天皇以降であり、その多くは甲斐源氏が甲斐の国に侵入してからの源氏の守護神であり、武田神社はなんと大正8年に創立した新参者です。

前置きが長くなりましたが
一つは甲府市中央町3-7-11です。甲斐奈神社
今回の記事及び写真はこの神社を対象に記します。

二つは笛吹市春日居町国府    甲斐奈神社
三つめが笛吹市一宮橋立北畑84 甲斐奈神社

いずれも平安時代の延喜5年(927年)に延喜式神名帳に纏められた当時の「官社」の事で式内社とも言います。

甲府の中央町の甲斐奈神社はそもそも現在の愛宕山の頂上にあったものですが武田信虎が川田の館から相川扇状地の武田氏の館(躑躅ガ崎の館)に築城し引越してくる時(1519年)に、愛宕山の甲斐奈神社を移動させて現在の地に鎮座させたものです。
恐らく、躑躅ガ崎の館に対する出城としての何らかの要塞として軍事的な施設を愛宕山に築営したものと思います。
ですから信虎以前の愛宕山は甲斐奈山と呼ばれていました。
しかし甲斐奈神社の社伝に依りますと当初此処の山には白山大神を祭ったものだそうです。
恐ろしく古い神話の時代、人皇の二代目即ち天照大神の息子のイザナギの時代だと言います。これは何が何でも古過ぎて御伽噺の世界です。
白山信仰は富士山、越中の立山、加賀の白山の三大霊山と言われて奈良時代以降の仏教との習合により人気を博してきた神社であり信仰だと思う。
白山大神が祀られた白山神社が何時から甲斐奈神社に変わったのか?
あの場所に白山大神を建てた勢力としては平安時代の中世では相川扇状地は小松郷となります。ですからそこを支配した勢力は甲斐の国司の勢力とは異なる豪族だったかもしれない。
古墳時代に遡ればこの青沼の地は考古学的には6世紀後半に志摩の郷(現在の湯村地区)加牟那塚古墳を盟主とする勢力が出現し、姥塚古墳群を盟主とする盆地東部の八代勢力が均衡し、7世紀には新興勢力として盆地の北に春日居古墳群を築いた寺本廃寺が出現して、三者の分布する地域が巨摩郡、八代郡、山梨郡でありその拮抗点が青沼であり相川扇状地だったかもしれない。
武田信虎が相川扇状地に進出するまでは河川が分流して未開の地と思っていましたが案外重要な場所だったのかもしれない。

白山大神は富士山に例を取れば清和天皇の貞観6年(864年)5月25日に大爆発が起こりそれ以前に駿河の浅間神社に富士山の御霊を祭祀させていたが怠慢で浅間山の神がお怒りになり爆発した。逆側の甲斐の国の八代郡に浅間神社を建てて祭祀するように命じた。それが現在の甲斐国の一ノ宮の一宮富士浅間神社、叉は河口湖畔の河口浅間神社、市川大門の一宮浅間神社のどれかだと言われています。
そのどれが本物かどうかは私には分かりませんがほぼ同じ時代に白山大神も祭祀されて延喜式神名帳に記載されたものと考えます。

甲斐奈山は武田信虎(1519年)以降の1582年の武田勝頼滅亡までの間は長禅寺山と言われていました。長禅寺は愛宕山の麓の愛宕町に現在もある大伽藍です。大井夫人の菩提寺です。若尾逸平一族の菩提寺でもあります。
鎌倉仏教禅宗臨済宗妙心寺派の武田五山と言われた武田時代に栄えた寺です。
叉その長禅寺山の一部を夢見山とも言ったらしい。
信虎が山を散策して昼寝をしたら夢を見たとの言い伝があります。
今度生まれる子供(武田晴信)は曽我兄弟の生まれ変わりだとの夢を見たとか。

武田崩壊後に豊臣秀吉の配下の浅野長政が甲府城を建設する際(1592年~1600年)に甲府城の(鬼門)北の守りとして愛宕神社を麓に勧進してその裏の山を愛宕山としました。
それ以降、現在まで愛宕山として固定しています。
権力者によって山の名前がコロコロ変えられた甲斐奈山です。

写真1は神社の紋ですが桜です。
古い時代、桜の神社紋は特別な意味を持っていたのではないかと思う。
大伴家の家紋だったそうですが。
もう少し調べたいと思っています。


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