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舞鶴城公園(甲府城跡)の晩秋(5)

2009.11.25 17:20  投稿者:ootaminoru

石垣からのお話。流れ流れてどこどこ行くの?

甲府城址は、つい最近まで城に関する建築物(建物)はありませんでした。
明治の初年に全て壊してしまったからです。
城址の範囲も内堀(二の堀、三の堀が別に外側にあった)の内側の1/3しか残っていません。2/3は都市に飲み込まれて県庁になったり百貨店になったり甲府駅、中央線になったり、堀を埋めて周辺道路になったりしています。
辛うじて石垣だけが残されていました。

しかし築城以来そのままの石垣が残されていたのは真に幸運でした。
甲府城の自慢の種はこの石垣です。

建物については12年ほど前から山梨県は甲府城に多額の予算を投入して修復整備して史跡としてリュアールしました。
現在復元された建築物は
1内松陰門
2鍛冶曲輪門
3稲荷門
4稲荷櫓です。

それから甲府駅の北口東に甲府市が昨年山の手御門を復元しました。
県庁東側の門の舞鶴道路を北に進み中央線弧線橋を渡り終えた右手に見える門がそれです。
その山の手御門を入れて5つになります。

それから最近のニュースとして近い内に鉄門(くろがねもん)を復元したい?叉は銅門(あかがねもん)より優先して復元したい?との意向が県議会レベルで出て来ているようです。

建築物とは別の石垣についての構造等はもう以前に記載してきましたので石垣の築かれた時代背景について書いてみたいと思います。

つい最近、映画「天空の城」を観てきました。織田信長が琵琶湖の湖畔にそれまで日本には存在しない桁外れに大きくそして強固なお城を造ります。
安土城です。
その築城の様子を小説(著者:山本兼一)から映画化したものです。
宮大工、岡部叉右衛門は実存の人物で熱田神宮の専用の大工頭領でした。
しかし領主の織田信長は自分の城造りに政治的権力とは言え熱田神宮を押さえ込み力ずくで岡部叉右衛門を城造りの総指揮官を命じます。設計から施行まで全てです。現在のゼネコンに相当します。
映画では伊勢神社のお抱えの大工頭領等も加わって設計を競わせます。
競わせたのは本当かどうかは判りませんが当時の大建築は神社仏閣でしたので既存の技術者として宮大工が設計施工に当ったでしょう。

しかし、前代未聞のお城であり始めてのモデルだったのでその基本的なグランドデザインは織田信長自らの発案でしょう。
資料には残されていませんが当時、織田信長はポルトガルの宣教師と懇意にしていましたので、鉄砲や大砲を用いた西洋の戦の仕方や守る居城の様子を聞いていたでしょう。
それまでの封建社会の神社仏閣との折り合いや規制を破るその事は次第に経済の規制緩和へと動いて行きます。
経済の流れが戦国大名の垣根や神社仏閣の垣根を越えて需要と供給の原則に向います。
今日の国家の範囲を超えたグローバルな自由経済を採用したのが織田信長であり、関税を撤廃し入国や出国を緩めて市場経済を拡大する為に楽市楽座を自分の城下に置いて都市化を図ります。広範囲から市場経済を進めました。
取引は物々交換から貨幣経済へ、度量衡の基準の標準化、手形などの新しい商取引など経済の流通化へのシステムが進んだ事でしょう。

ポルトガルから鉄砲が入りました。
そのモデルを取り込み素早く国産を開始します。堺の商人を通して信長は仕入れて鉄砲を武器とした新しい戦闘戦略体制を編み出します。

一方、その城壁の石積は琵琶湖西岸の坂本に近い安太集団の石工に命令しましたがその安太集団は比叡山お抱えの石工でした。
元々比叡山の階段等の工事をする比叡山延暦寺専用の石工技術集団です。
その石工を織田信長は城造りに命令し動員させたのです。

それ以前の中世のお城は石垣ではなくて土塁による堀で城郭は平屋の入母屋造りでした。武田氏の館即ち躑躅ガ崎の館も例に漏れません。
以後、織田信長、羽柴秀吉、そして徳川家康の政治権力時代の城造りに石積みは安太石工集団が全国の築城に派遣されたり、チームを分けて頭領が派遣されて仕事をすることになりました。この時代の城壁石垣積みは安太積叉は野面積と言います。
敵対する勢力や異国の戦国大名からの依頼に対しても石工集団は経済原則に則り仕事をするようになります。織田信長と対立関係になった自由都市堺の環濠集落の掘りも安太衆によって成されました。
恐らく大工の棟梁も経済の自由化に進んだものと推定します。

やがて天下統一への時代に差し掛かり、お城は同一勢力の施主によって築城されるようになり、城郭のモデルが均一化されて類型化します。それが今日の石垣掘りの多層天守閣のお城です。

現在でも石工のことを業界用語で安太衆と言います。

映画では天守閣の五階七層?の通し柱を敵対する武田信玄の国の木曽の檜を求めます。この事は映画のフイクションだろうと思いますが敵対する戦国大名の領地から軍事物質を調達します。
岡部叉右衛門が熱田神宮の頭領であったことから熱田神宮を仲介して調達できたのかどうかはわかりませんが本当であればここにも自由経済の波を予感させます。

今日の日本の時代と類似点があります。


この安土城を築城開始したのは1576年(天正4年)であり完成は1581年(天正9年)です。
築城の前年、1575年に織田信長は長篠の戦で武田軍を壊滅的に破ります。
お城が完成した翌年の1582年に織田信長は武田勝頼を織田、徳川の連合軍で攻めます。武田軍はもろくも内部崩壊して終焉します。
しかしその三月後には事もあろうか本能寺で織田信長自身が明智光秀によて殺されます。

すると羽柴秀吉が俄然表舞台に飛び出してきます。やがて豊臣秀吉の天下の時代となります。
この時代を安土桃山時代と称します。室町幕府から徳川幕府をつなぐ時代で安土とは信長の安土城を指しますが平安楽土を縮めたもの、桃山時代とは豊臣秀吉が晩年の居城だった伏見城の事らしいです。
豊臣秀吉は1592年小田原の後北条を豊臣政権連合軍で包囲して征伐します。そして徳川家康を北条の跡地に入れて実質的に関西から追い出し関東に移動します。
東海から以西には入れさせない為に甲府城、松本城、駿府城、小諸城、上田城を築城させて其処に譜代大名を配置します。
その一つが甲府城だった訳で1582年頃から浅野長政に命じて甲府城の普請に掛かり1600年には完成していました。
織田信長が近代的な安土城を完成させてから僅か11年後に甲府城の築城が開始されます。そして20余年後に完成しています。
そして石積みの積み方はその時代の技術を表現しています。
その当時の築城の石垣を残すお城は少ないと言います。


石積の講座が生涯学習で下記の通り催されます。無料です。
平成21年度山梨再発見講座&埋蔵文化財シンポジューム
山梨県生涯学習推進センター主催 申込み及び会場 講座は何れも午後2時から4時まで生涯学習推進センターです。℡055-223-1853
「社会を支えた石の技術」成立と展開を考える。
1回目「古代の石積み」 平成22年1月7日(木)
2回目「城郭石積み」  平成22年1月14日(木)
3回目「治水工事における石積みの姿」平成22年1月21日(木)
4回目「石工を巡る伝統技術の保存と継承」平成22年1月28日(木)

その他に
特別講演&シンポジューム(申込みは県生涯学習センター)無料
「社会を支えた石の技術から成立と展開を考える」平成22年2月7日(日)13:00~16:30分甲府市中央公民館


写真1は稲荷門です。桜の紅葉を入れて撮影しました。

写真2は城址の東側の外の道路から撮影したものです。
高さ17メートルの壁はこの城最大の城壁です。

写真3は恩師林記念碑から銅門そして内松影門へと続く虎口を撮影したのです。小さくて見にくいのですが中央線の線路を越えてその先、右側に山の手御門が見えます。


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コメント(1) | この記事のURL | カテゴリー:歴史文化産業

コメント

ブログを書いたootaminoruです。文章に誤りがありました。

甲府城の築城を開始したのは1582年と書きましたが1592年の誤りです。
お詫びして訂正します。
投稿者:ootaminoru: at 2009/11/27 05:55

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