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今になって何にでも興味わくわくの おじさんパンダ。主食 酒。 特技 昼寝。 性格 弱そうですが強暴。韮崎生まれで甲斐市に生息。

外務事務次官 駐米大使 埴原正直

2008.03.03 08:01  投稿者:パンダ 1号

 外務省と言うとちょっと前まで無駄遣い役所とか伏魔殿とかやり玉に上がっていましたが、学生の頃はやはりエリート外交官には憧れたものです。
 
 そんな外交の世界の頂点を極めた人物の一人が山梨にもいたことを知りました。しかも、明治の時代に海のない山梨にいて海外・外国語という未知の世界に対し関心を持ち、中央線の鉄道も開通していない時代に東京へ出て学び、官僚組織の中で頭角を現していった郷土の先人が、地元山梨ではあまり知られていないような気がします。

 その人物の名前は「埴原正直」。明治9年に中巨摩郡源村(現在の南アルプス市白根地区)生まれ。
 家は源村長を務める名家であったようです。腕白なため地元の小学校から近隣の小学校へ転校せざるを得ない状況ではあったが、学業は優秀であったということです。
 甲府中学から東京の私塾へ学び、その後明治30年東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科を卒業、卒業生総代を務めました。(当時の全学科卒業生総数は百数十名規模)
 
  卒業翌年に外交官試験に合格、領事補として中国のアモイを振り出しに朝鮮・米国で勤務。その後、通商局長・政務局長をへて外務事務次官と昇進します。

 大正10年には特命全権大使として米国へ赴任。外交界では「スモールハニー」の愛称で親しまれますが、当時の米国による排日移民法に憤慨、成立阻止に向け「埴原外交」を展開します。こうした外交はそれまで泣き寝入り外交であった対米関係に一矢を報いたとも言われています。

 大正13年4月24日付けの山梨日日新聞には、埴原大使に宛てた意見文書が掲載されています。 … 写真 下

 埴原氏の墓は、同市飯野新田にある良円寺の墓地にありました。古くひっそりとした墓地ですが、灯篭は源村から贈られ、江戸時代の石塔からも名家が感じらます。(画家であった妹の墓石もあるが両墓とも遺髪塚とも聞く) … 写真 下の上
 正直の名は本来 政直 であったことも父母の墓石から確認できます。

 この了円寺は日蓮宗の寺院ですが、もともとこの地区を流れる徳島堰の完成を祈願する寺院として建立され、今でもお堂があります。お堂の横には徳島翁夫妻の墓と伝えられる塚がありました。
 徳島堰は、今から350年ほど前の江戸時代に、現在の韮崎市円野地内から曲輪田の新田までの間の用水路として建設されました。この開削に取り組んだ江戸の商人徳島兵左衛門を祀っているということになります。
 この徳島堰は日本三大堰の一つだそうです。

 現在同地域には、埴原氏の生家はないと聞きましたが、顕彰碑のようなものも見当たらず寂しい感じでありました。


 埴原正直氏と東京専門学校英語政治科の同級生(17名)の一人に、やはり山梨県人の長田瑛氏がいます。長田氏は二川村出身、卒業後郷里に帰り郡会議員、県会議員として活躍、蚕糸組合長を務め製糸組合「模範社」の初代社長となった人物です。 
 現在も甲府市二川に屋敷がありますが、外観はだいぶ痛んできた様子です。
 … 写真 上
 


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